下宿が決まるまでの3日間はホテルバイエリッシャーホフに泊まった。ここもエルランゲンの駐在員事務所のベテラン秘書嬢が予約してくれた。
チェックインした時、ホテルの女将らしい年配の女性に「朝食は何時にしますか?」と聞かれ「7時に(um 7 Uhr)」と答えたのだが、これが通じなくてショックを受けた。
案内された部屋は2階で道路に面していた。部屋代は記憶に無いが、日本のビジネスホテルとは違って広々した部屋だった。
プリーン最初の朝、未だ時差ボケが続いていたが窓の下から聞こえてくる物音で目が覚めた。ベットから起きて外を覗くと、ゴミ回収車が走り去るところだった。
咄嗟にテーブルの上のカメラを取り上げて回収車の後ろ姿を撮ったが傾いてしまった。
ホテルは駅と中央広場との中間にあり、プリーンの町の繁華街?に位置している。居室の窓から見えるのはゴミ回収車だけでなく、写真のような粋なショウウィンドウも見えた。
プリーンは小さい町だが教会と中央広場(Marktplatz)を備えていて、日本の田舎町よりは都会の雰囲気がある。
Marktplatzと言っても、市が立ったのは昔のことで、20世紀後半に訪れた小生には、広場と言うよりは「車の通る広い道」としか見えなかった。
プリーン駅からキーム湖まで歩くと20~30分位掛かるので、駅とキーム湖の桟橋まで鉄道が引かれ、小さな蒸気機関車が通っていた。
途中の道路と鉄道の交差する所に遮断機があるのだが、道路ではなく鉄道の方を遮断している。自動車優先であった。
到着した次の日に湖を見に行った。キーム湖鉄道に乗ろうか迷ったが、切符を買ったり、列車の発車時刻を気にしたりするのが面倒で、中央広場から湖まで「湖岸通り」を歩いた。
道の両側には別荘やペンションが多く観光地・保養地としてはそこそこ人気があったようだ。
プリーン駅の駅舎と同様、ドイツ語学校の外観は全く普通の家である。中央の入り口を入るとホールがあり、一階と二階にある教室に続いていた。食堂は地下にあった。
初日の面接で、日本でどの程度ドイツ語を勉強したかとか、下宿は個人宅とホテル(寮)とどちらが良いか等を聞かれた。小生は「ホテル」の方が「個人宅」より住み心地が良さそうなのでホテルを選んだが、ホテルキーム湖は廃業した古いホテルなので期待が外れた。
バス付きの一人部屋を要求したのだが、 バス付きの一人部屋は一部屋だけで、米国から来た美人女子学生に割り振られた。後で顔を合わせた時、彼女と争っては勝ち目は無いと思った。
結局、小生に割り振られたのは2階のバス無しの個室だった。細長い部屋で入口の横に洗面台があり、壁際に読書用の机とベッドが配置されていた。
共用のバスルームは3階にあったが、長雪隠の小生は毎朝トイレを確保するために早起きした。
居室の窓から教会の尖塔が見えた。最初の朝、割れるような鐘の音で目を覚ました。二ヶ月の滞在中、日に何度か聞こえてくる鐘の音には閉口した。
プリーンへ来て直ぐの頃、駅からキーム湖へ向かう途中で撮ったと思われるが、その後の散歩コースから外れていたので、今となってはプリーンの地図を見ても場所を特定出来ない。
寮生活が始まって間もないある日、散歩の途中で木々に囲まれたエリアに迷い込んだ。明るい夏の光が溢れていて最初は墓地とは気づかなかった。
公園とは雰囲気が違うなと思いながら、周囲を見回して、漸く墓地だと気がついた。横浜の外人墓地のイメージが強かったので、西洋のお墓は平たいモノと言う先入観があったので気がつくのに時間が掛かった。
ドイツ語の予習・復習はどうしても飽きてしまう。緯度が高いので夏の夕方はなかなか暗くならない。夕食前に町の周辺を散歩するのが日課になった。
小さな町なので数分歩けば郊外である。ドイツは何処へ行ってもそうだが、プリーンの周辺も緩やかな起伏の牧草地が開けていて実に美しい。
立ち止まって牛を見ていると心が安らぎ少し元気が出る。
田舎道の散歩は気に入ったのだが、途中の道路脇に祀られた十字架のキリスト像は血の色が鮮やか過ぎて馴染めず、見る度に「異国」を感じた。
牧場に隣接して洋館があった。この辺りの土地を所有する地主様の館かもしれない。興味を持ったのだが、連日のドイツ語学習に疲れていて調べる元気が出なかった。
散歩コースの途中、周りは牧場で他に人家が無い処にひっそりと建っていたので何だろうと思った。当時は気になったが調べなかった。このページを書く際に調べたら老人ホームらしい。
ドイツ・カリタス連盟と言うカトリック系の福祉団体が運営 しているらしいが、当時未だ30代中頃の小生は「自分が老いる」ことにも、老いてこう言う施設に暮らす人々にも、全く関心が無かった。
毎日の散歩コースの途中に保養客向けの遊歩道があった。道で出会う人が見知らぬ小生にも「グリュッスゴット!」と声を掛けてきた。バイエルンでは朝も昼も晩もこれで済ませてしまうので楽だった。
ドイツ語学校の授業料は住と食がコミになっている。住は個人住宅の下宿か寮が提供される。朝食は学校の食堂で提供されるが、昼と夜は食事補助券が支給される。
但し、枚数や金額に制限があるので不足分は自分で負担する必要がある。節約して自炊する受講生も多い。小生は会社から手当が出ているので、余裕があり、馴染みになった何軒かのレストランを巡回していた。
夏は殆どの客が店の前の木陰に席を取った。以前、ここのテラスで昼食をとっていたら頭上からヒラミが降ってきた。それ以来、小生は木陰は避けて暑いけれど店内で食べるようにしていた。
この年(1976年)、日本は冷夏でドイツは猛暑だった。午前中はまだ良いが、午後の教室は蒸し風呂だった。午後の授業は週2日だけだったが、暑さに閉口して生徒が嫌みを言うと、ドイツ人の先生は「カタストロフィ」と言って首を傾げるだけだった。
午後の授業が無い日は自室でドイツ語の自習だが、大抵長続きせず散歩に出た。
右の写真は、顔も名前も思い出せないが、散歩の途中で遭ったドイツ語学校の生徒にシャッターを押して貰った。後ろの流れはプリーン川、尖塔は中央広場に面して建つ教会である。
散歩の途中で出会った牛は2頭並んで日陰にいるのがおかしかった。
子供たちには写真が出来たらあげる約束をしたのだが、旅行やら授業が忙しくなって約束を果たせなかったのが心残りである。
◆建築ブーム
散歩の途中、アチコチで大きなクレーンを備えた建設現場を見かけた。端から見ているとレンガを積み重ねているだけの単純な工事に見えた。
とは言え、ドイツのことだからいい加減な工事がまかり通るとは思えないが、地震が殆ど無いので耐震性はあまり考慮されていないと感じた。
地下部分が深く掘り下げられて地下室と思われるスペースが出来ている。そう言えば、滞在中に見たドイツの家には大抵地下室と屋根裏部屋があった。
現場近くに簡易プラントを設置してモルタルやコンクリートを調整していた。比較的小綺麗な建築現場の中でここだけが埃っぽく劣悪な作業環境だった。
地下室が姿を現した。小生がアンベルクで借りた部屋は窓が地面の上に顔を出すタイプの地下室だったが、この家の窓は地面より低くいようなので、周囲の土手との間にスペースを設けてあかり取りをするタイプと思われる。
日本の木造家屋はやたら凸凹が多く複雑な構造だが、ドイツの家は、所々に窓用の穴を設けた4枚の平面で囲っただけのシンプルな構造である。極言すれば工事はレンガを積むだけで済む。地震国の日本では真似出来ない工法だが、構造のシンプルさは大いに見習うべきと思った。
日本の木造家屋は黒っぽい屋根瓦と板壁なので地味でパッと見た時の印象がイマイチだが、ドイツの家は白壁と赤い屋根が多く、一軒一軒でも集落全体でも見映えが良い。